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学問におけるポピュリズム――羽入氏『犯罪』の一つの読み方

橋本直人

2004816

 

 

 羽入氏の著書『マックス・ヴェーバーの犯罪』(以下『犯罪』と略記、書名なしのページ数は『犯罪』からの引用ページ)と、それに対する折原氏の批判を中心として展開された今回の論争は、ここまでのところ主に『犯罪』の主張内容に関する学問的な批判が主題となってきた。それは応答に加わった人々の研究者としての良心の為せるところであろう。だが私見ではこの論争は、また特に『犯罪』は、これまでの経緯の結果として良くも悪くも「政治的」な性格の強いものになってしまったように思われる。ただしそれは通常の意味での「政治」、例えば権力をめぐる党派的な「政治」といった意味ではない。そうではなく、社会における学問的専門性の「位置」に関わるという意味で「政治的」なのである。

 本稿は、『犯罪』の読解を通じて以上のとらえ方を提示し、論争への「応答」を試みたものである。

 

 

 『犯罪』とこの論争が「政治的」である、と主張する限り、最初に自らのスタンスを明らかにする義務が私にはあるだろう。まず、私は自分のことを(たとえどれほど未熟であろうと)狭義のウェーバー研究者であると理解している。したがって私はこの論争に対して一定の利害関心を有している。つまり「局外中立」ではあり得ないし、またあろうと欲してもいない。もっと有り体に言えば、私はウェーバー研究者として羽入氏の立場に対してはきわめて批判的である。

 ただし、羽入氏個人に対しては(また折原氏他批判者側の各人に対しても)何ら含むところはない。私は羽入・折原両氏に面識があるが、しかし両氏いずれに対しても「先輩・後輩」や「師弟関係」といった「しがらみ」は有していないし、逆に何か反感を抱くような「背景」も持っていない。ついでに言えばいわゆる「大塚学派」なるものにも何の縁もゆかりもない。しばしば(特にネット上で)政治と人間関係を混同した勘ぐりが見られるので(「日本的」政治文化?)、念のために付言しておく。

 

 

 とはいえ、『犯罪』と論争の「政治性」の問題に入る前に、まず『犯罪』の各論点について私の理解を簡単に提示しておくべきであろう。

 少なくとも理論的な関心から見る限り、私は『犯罪』の主張内容の全体を通じて何か新たな成果や方向性がうかがわれるような、そうした「新しさ」を感じることができなかった。これは『犯罪』刊行時に私が日本にいなかったために当時の「反響」を知らなかったという事情による部分もあるだろうが、それだけが理由ではない。

 

 例えば、折原氏も「一見一番よくできている」(『ヴェーバー学のすすめ』p.104)と、その「巧妙さ」を指摘するフランクリンに関する議論を取り上げてみよう。すでに早くから指摘されている3章と4章の矛盾(例えば同p.103、また橋本努氏「ウェーバーは罪を犯したのか」を参照)などいろいろ疑問点はあるのだが、このフランクリンに関する議論から最大限積極的な要素を取り出すとすれば、それは理念型に関する問題であろう。理論的に見れば、『犯罪』の後半二章で最も重要なのは「理念型概念に対する批判可能性」の問題であり、これはすでに折原氏や橋本努氏も指摘しているとおりである(もっとも羽入氏自身はp.195で理念型を「呪文」と呼んでいるように、この問題については全く触れていない。この点については後述参照)。

 だがこの問題は、実はすでに大塚史学に対する越智武臣氏の批判と、その批判に対する世良晃志郎氏の応答のなかで論じられている問題なのである(この点については安藤英治氏の『ウェーバー歴史社会学の出立』p,229を参照。また、その点で羽入氏が「あとがき」で越智氏と安藤氏の名を挙げているのは示唆的である)。

 この問題自体は確かに重要な問題である。管見の限り、この問題についてウェーバー研究者から明晰かつ十分な解答が提示されたことはまだないように思われるし、それゆえ改めて提起されるに十分値する問題であろう。実際、世良氏はこの問題を「ウェーバーの科学論における最大のアポリアの一つをなす問題」(世良晃志郎『歴史学方法論の諸問題』p.136以下を参照)とさえ呼んでいる。そして私自身も、この問題に対して何らかの解答を提示するのはウェーバー研究者としての責務の一つであろうと考えている。

 その意味で、確かに『犯罪』後半二章(そしてその主張に対する批判)の提起する問題は理論的に見ても重要ではある。しかし決して新しい問題ではないし、また「忘れられた」問題でもない。

 

 あるいはまた、前半のルターに関する問題を見ても似た印象を受けずにはいられない。

 羽入氏自身が初出を明らかにしているとおり、『犯罪』のルターに関する部分はすでに『思想』や『倫理学紀要』上で10年以上前に提示されている。しかし、例えば安藤氏による言及(安藤上掲書p.263)を例外とすれば、管見の限りこの時点で彼の主張をめぐって論争が展開されたという記憶はほとんどないのである。つまり、折原氏の批判する「黙殺の文化」ということで言うならば、すでにウェーバー研究者は羽入氏の主張を一度は「黙殺」していることになる(そもそも最近の業績至上主義による論文量産状況の下では、若手による業績の大部分は「黙殺」されている)。

 私個人の印象に戻れば、そもそも『倫理』の「全論証構造」の核心がルターに関する節の脚注にある、という問題設定自体が腑に落ちず、まだ院生だった頃に『思想』の論文を読んだときにも、率直に言えば「何とも応答しかねる」という印象を抱いていた。これは折原氏の指摘するとおり、羽入氏が『倫理』の「全論証構造」を明示していない当然の結果である。この印象は『犯罪』でも基本的には変わらない。

 

 このように見てくれば、少なくとも理論的な関心から読む限り『犯罪』はそれほど「新しい」書物ではない、という私の印象にもそれなりに根拠のあることが理解されるであろう。『犯罪』を読む限り、そこで指摘されている事実は新しいとしても、それだけで何か生産的な展望が開かれるようには思えないのである。

 

 それに加え、羽入氏のウェーバー理解にはやはり疑問を呈さないわけにはいかない。

 例えば上で触れたように、せっかく理念型をめぐる重要な論点に接近していながら理念型論そのものを「呪文」と呼んで切り捨てている(そのために問題自体が展開されていない)点は、私などには非常に「もったいない」と感じられてならない。実際、すでに述べたようにこの問題が十分に展開されたならばウェーバー方法論に対する深刻な批判ともなり得るはずなのだが、羽入氏はその可能性を自ら放棄している。このことからすれば、羽入氏はその「もったいなさ」を、つまり自らが展開し得たであろう問題の意義を理解していないのではないか、という疑問が生じてくるだろう。

 さらにもう一つ『倫理』解釈そのものに関わる事例として、『犯罪』p.130以下の長大な注(注自体はp.125から始まっている――「脚注の腫瘍」?)におけるアブラモフスキー批判を取り上げておきたい。

 羽入氏はこの脚注の中で、教会史家カール・ホルの文章をていねいに引用しながらアブラモフスキーの「虚偽」を指摘している。そしてその結論として羽入氏はこう述べている。

 

 「ホルは飽くまでも、カルヴィニズムは資本主義を抑圧すべく戦ってきた、と述べているのである」(p.135)。

 

 だが問題はこの「資本主義」の中身である。この注で引用されているホルの文章からすると、カルヴィニズムが「抑圧」すべく戦ったのは「高利貸し達」に代表されるような、「貨幣経済」と同一視し得る「資本主義」である(p.134)。しかしこうした「資本主義」と近代資本主義との区別、またカルヴィニズムが「貨幣経済と同一視し得るような資本主義」に、言い換えれば「野放図な営利追求」に徹底して反対したという論点は、それこそ『倫理』解釈上の初歩に属すると言えよう。そしてこの論点を踏まえれば、ホルの主張はまさに「ヴェーバーの認識を少なからぬ点で立証して」いる(p.131、アブラモフスキーからの引用)と言ってよい内容なのである。その限りでアブラモフスキーは何ら「虚偽」を犯してはいない。

 それに対して、この二つの「資本主義」の区別自体まで否定するならともかく(それならばまだしも生産的な議論になる可能性がある)、同じ「資本主義」という言葉が使われていて主張が逆だからアブラモフスキーは「虚偽」を犯した、と言うのでは「素朴実証主義」のそしりは免れまい。

 対象がウェーバーであろうが何であろうが、批判する際にその批判対象を正しく理解する、というのは積極的な批判を行なう上で必要不可欠な条件であろう。だが以上の例からもうかがわれるように、『犯罪』の場合にはその批判の前提であるはずのウェーバー理解がどうも怪しいのだ。となれば、羽入氏がどれほど力を込めて「分からないと言ってきた人間達の方が実は正しいのではなかろうか」(p.5)と主張したにせよ、その「理解不可能性」の責任がどこまで本当にウェーバーにあるのかも、やはり疑わしく感じられてしまうのである。

 

 以上のように、「新しさ」という点からしても、また「批判の生産性」という点からしても、少なくとも私個人の関心に照らす限り、『犯罪』は取りたてて応答を必要とする書物とは思えない。

 にもかかわらず今回に限って『犯罪』に対する応答が要請されるとするならば、それは以上見たような羽入氏の主張内容そのものへの応答責任が問われたからだとは考えにくい。結局は内容以上にその語り口、「詐欺師」ウェーバーの「犯罪」という語り口にどう応答するのか、その点が問われることとなってしまったからではないだろうか(もっとも初出各論文でも羽入氏の語り口は相当「挑発的」だったのだが)。

 鈴木あきら氏の発言(「論争への応答」参照)はこうした事情をあまりにも的確に、あるいは身も蓋もなく、指摘している。

 

 「ようするに、羽入氏の本が面白いということと、マックス・ヴェーバーとはあんまり関係ないんですよ。」

 

 私が冒頭で「良くも悪くも」政治的と述べた、その「悪い」側面はこの点である。つまり『犯罪』(その受け取られ方を含め)の力点がどうしても主張内容よりもその「語り口」とその「効果」にシフトしてしまい、その結果どうしても学問的に生産的な議論が展開されにくくなってしまっているのである。

 そしてこうした結果に陥った大きな原因の一つは、いうまでもなく羽入氏の「無回答」にある。もし羽入氏が論争初期の段階で何か積極的な応答をしていたならば、また違った展開もあり得たのではないだろうか。せめてこれからでも羽入氏から何らかの応答がなされることが強く望まれる。

 というのも、羽入氏のこの沈黙は、実はさらに重大な意味を持ってしまう可能性があるからである。それが次に取り上げる「語り口」の問題である。

 

 

 『犯罪』における「語り口」を検討しようと考えるならば、誰もがまず思い浮かべるのは冒頭の「女房」のエピソードであろう。確かにこのエピソードの印象は、各種の書評やコメントでもしばしば触れられているように、善し悪しはともかく実に鮮烈である。しかし冷静に数えてみれば、『犯罪』における「女房」の登場はこの「はじめに」の4ページと終章の注(4)の2ページ、計6ページに過ぎない。そのわずかな量で「女房」があれほどの印象を読者に残すのはなぜであろうか。「学術書らしからぬ」抱腹絶倒のエピソードだから? なるほど。だがそれだけの理由だろうか。個人的な事情を記した前書き・後書きの類は山ほどあるし、面白いものも決して少なくはない。だが、これほど強い(それも内容に関わるような)印象を残すものはまずないだろう。

 この『犯罪』における「女房」のエピソードはなぜこれほど強い印象を与えるのか。おそらく、「女房」は『犯罪』の「語り口」にとってきわめて重要な役割を担っており、だからこそ印象が強いのである。このことを明らかにするために、少し細かく『犯罪』の「語り口」に付き合ってみよう(以下カッコ内の数字はすべて『犯罪』からの引用ページ。また、言うまでもないが以下の分析は現実の羽入夫妻とは何の関係もない。あくまで『犯罪』の「語り口」の分析である)。

 

 確かに『犯罪』はウェーバーを「詐欺師」と非難している。だが『犯罪』の「語り口」が描き出すウェーバーはただのチンピラ詐欺師ではない。むしろ「あの明敏な」(p.104)ウェーバーは「読者を自分の思う方向に引きずり込む力という意味での腕力」(p.19)に長けた「冷徹で老獪」(p.196)な「底意地の悪い悪魔」(p.212)である。この「悪魔」の手にかかれば大塚久雄でさえ「よちよち歩きの赤子に等しい」(p.212)

 しかしやはり『犯罪』によれば、ウェーバーのこの「魔力」は実際には「余りにも簡単なトリック」(p.196)であり、「基本的なことを確かめる」(p.18)ことさえ怠らなければ「誰もがただちに簡単に気づく」(p.146)ことができる代物に過ぎないのである。

 そんな「簡単なトリック」にそれでも人々が簡単に引っかかるのは、それが「読者が知的であろうとすればするほど、知的でありたいと願えば願うほど、絡め捕られ締めつけられる巧妙な罠」(p.197)だからである。そんな「優秀な人間達」(p.261)ほどウェーバーの魔力に捕まり「押し潰されてゆく」(p.261)。その結果生まれるのが「科学の名に値する学問」(p.3)とはとうてい言えない「ヴェーバー産業」(p.5)である。この世界ではウェーバーに疑問をはさむことなど「専門外の素人達の単なる誤解」(p.3)と切って捨てられる。これこそ「ヴェーバー研究の世界の情けない実体」(p.146)に他ならない。

 これに対して「たかが一読者にすぎないこの卑小な私」(p.19)こと羽入氏は、「かつて一度は純粋に無邪気にもマックス・ヴェーバーを崇拝していた」(p.277)が、「演算速度の遅いコンピューター」(p.261)だったことがかえって幸いしてウェーバーの魔力という「ウイルス」(同上)を免れることに成功する。そしてついに「最後にはおのれの自重で簡単に倒れるだけの巨大なブロンズ像」(p.265)を倒し、「世界的な発見」(p.283)を成し遂げる。

 それゆえ羽入氏は次のように宣言する。「この複雑怪奇な罠を単純に一気に叩き壊してしまうためには、思い切った馬鹿にならなければならない。イワンの馬鹿のような、明朗で単純な馬鹿に」(p.197)

 

 では、ウェーバーの魔力に取り込まれている数多くの研究者たちの中で、なぜ羽入氏だけがその魔力を脱し「明朗で単純な馬鹿に」なれたのか? 実際、羽入氏自身もはじめは「学者の鑑」ウェーバーを批判するという「不遜な冒瀆行為」に対する「恐怖感」(p.ii)ゆえになかなかウェーバー批判に踏み込めなかった。いや、数多くのウェーバー研究者の中でも羽入氏のウェーバー恐怖は異様なほどである(「怖くて書けない」(p.ii)!)。その羽入氏だけがなぜ? その理由はもはや明らかであろう。「女房」のおかげである。

 羽入氏の「女房」は「全くの素人に過ぎない人物」(p.280)だが、それゆえにウェーバーの「毒素に全く感染しない」(p.280)。だからこそ何の根拠もなく(「大体が詐欺師の顔してる」!)ウェーバーが「嘘付いてるわよ」(p.i)と断言できる。そしてその「女房」に尻を叩かれることでようやく羽入氏は「ヴェーバーを一人で、世界中ではじめて、批判することの恐怖」(p.iii)を克服する。したがって、いわば「世界中ではじめて」ウェーバーの「魔力」を打ち破ったのは「女房」ということになる。

 

 以上のまとめは『犯罪』から印象的なフレーズを抜き出してつないだに過ぎないが、おそらく読者諸氏が『犯罪』を一読して抱かれる印象と大差ないだろう。そしてこのように見てくれば、冒頭のエピソードが強烈な印象を与える理由も明らかであろう。『犯罪』の語り口を成り立たせるその最終的な拠り所がまさに「女房」のエピソードなのであり、逆に言えば良くも悪くも『犯罪』独特の語り口は、その一つ一つがみな「女房」の第一声(「マックス・ヴェーバー、ここで嘘付いてるわよ」)の残響なのである。「女房」の印象が強いのは、いわば『犯罪』の語り口のしくみそのものが生み出す当然の結果なのである。

 

 さて、以上のまとめをさらに整理すれば以下のようになるだろう。

 

 ―― 「老獪な悪魔」にして「詐欺師」ウェーバーの周囲を、すっかり「魔力」に当てられた「優秀な」「インテリ」たる「専門家」が取り巻いている。だがその実体は「簡単なトリック」であり内実は全くの空虚である。その実体を見抜くことができるのは「明朗で単純な馬鹿」である羽入氏だけであり、それが可能になったのは「全くの素人」である「女房」の直感が「魔力」を打ち破ったからである、と。

 

 確かに痛快な図式ではある。あまたの「インテリ」たちを「専門家」として取り巻きに抱える「老獪な悪魔」ウェーバーを、徒手空拳、「素朴な疑問」だけを手に携えて打ち破る「素人」羽入氏――なるほど、いくつかの書評で『犯罪』が「スリリングな展開」と評されたのもうなづけないではない。少しばかりRPG臭いような気もするが、それはまあ良しとしよう。

 さて、この図式にのっとって仮に「悪魔」ウェーバーを「文献学の万力」で追いつめ、その「知的誠実性」のなさの暴露に成功したとしよう。だが「ウェーバー退治」も済んでこれで「めでたしめでたし」、と簡単に一件落着するわけではない。問題はその次である。武器として用いられた「万力」は、そして批判の規準であった「知的誠実性」は、ウェーバー退治の後どうなるのか。羽入氏はこれらの武器を手に新たな戦果を生み出すのか、それともウェーバー退治とともに「御役御免」とばかりにこれらの武器も放り出すのか。

 なぜこんな問題が生ずるかと言えば、今挙げた「万力」と「知的誠実性」という二つの言葉の出典が他ならぬウェーバー(『職業としての学問』)だからである。果たして羽入氏は、「悪魔」ウェーバーもろともに「悪魔」が教えてくれた武器である「万力」も「知的誠実性」も打ち捨てるのか。言い換えれば、羽入氏のウェーバー批判は『倫理』の内容のみにとどまるのか、それともウェーバー全体にまで、とりわけウェーバーが擁護した学問的な厳密性と専門性の否定にまで及ぶのか。これがここでの問題である。

 

 このように問題を整理すると、多くの方は何を馬鹿な、と思われるであろう。いかに羽入氏が激烈にウェーバーを批判したにせよ、学問的な専門性まで否定するわけがない、と。だが本当にそうだろうか。

 

 実はこの点で『犯罪』はかなり両義的である。一方では確かに、『犯罪』は学問的な厳密性と専門性の徹底こそが必要だと主張しているように読める。羽入氏は『犯罪』での議論を「社会科学が科学であり続けるため」にこそ必要な作業である、と主張している(p.283)し、さらに「ヴェーバーの教えにしたがって、ヴェーバーに教えられたとおりにヴェーバー自身をも批判的に研究していく」(p.7)というセリフなどはそれだけ取れば名言とさえ思える。

 だがすでに雀部氏や折原氏も批判するとおり、『犯罪』のウェーバー批判は、少なくともその語り口の水準で見る限り、常にウェーバーの全否定として語られている。実際に批判の対象となっているのはウェーバーの膨大な著作中でも『倫理』の前半部分だけなのだが、『犯罪』での批判は常にウェーバー全体を、とりわけ『学問』をはじめ羽入氏に戦うための武器を与えたであろうウェーバーの方法論をも、巻き添えにするように書かれている。雀部氏や折原氏が厳しく批判する「全称命題」の問題性は、私の見る限りこの点にこそある。

 こうした『犯罪』の両義性がどちらに転ぶかは、『犯罪』だけでは決定されない。そこで重要になるのがその後の羽入氏の言動である。なぜなら、この羽入氏の言動は氏自身の意図を越えて『犯罪』が読まれる際の文脈を形成してしまうからである。

 

 ここで、もし羽入氏が今回の論争に対して「一人の専門家」として何かしら積極的な応答をしていたならば、それは羽入氏のウェーバー批判が『学問』に代表されるような学問的専門性の否定を意味しない、という明瞭なメッセージとなり得たであろう。しかもそこでの積極的な応答は別にウェーバーに関するものでなくとも良かったはずである。新たなフランクリン像やルター像の提示でも、あるいは資本主義の成立に関する新たな仮説でも、一定の専門性を前提として何かしら積極的な発言がなされれば、『犯罪』でのウェーバー批判が直ちに学問的な専門性の否定を意味するわけではない、と明瞭に示し得ただろう。そうなれば上記の両義性は学問的専門性の徹底という方向で解消されていたはずである。

 だが、少なくとも現時点まで羽入氏からそうした応答はなかった。そしてこのことは応答がなされた場合の裏返しの事態を含意してしまうだろう。つまり、論争における羽入氏の無回答を通じて、『犯罪』は学問的専門性まで含めた全否定として読まれ得る書物になってしまうのである。上記の比喩で言い換えれば、羽入氏はウェーバー退治とともにその武器も放棄してしまった、ということになる。

 加えて羽入氏が『犯罪』刊行以降も常に「女房」を引き合いに出して発言していることは、こうした可能性を強化してしまう。というのも、羽入氏はこれらの発言において「専門家」としてではなく「女房」=「素人」の代弁者として「専門家」の「空虚さ」を批判しつづけることによって、「素人の代弁者」ではなく「一人の専門家」として語る可能性を自ら狭めてしまっているからである。その結果、ひるがえって『犯罪』は上記の両義性を離れ、「専門性の否定」の言説として読まれてしまうだろう。

 こうした事態は羽入氏自身にとっても自縄自縛ではないかと推測するのだが、それは問うまい。ともあれ、少なくともこの限りで羽入氏の言動は「悪ふざけ」でも「調子に乗っている」のでもなく一貫したものと解釈することができる。

 

 先に私が「論争における羽入氏の沈黙は重大な意味を持ってしまう」と述べたのはこの意味においてである。羽入氏の実際の動機がどうであろうと、『犯罪』を含めその言動は結果として専門性否定の意味を帯びてしまう。だからこそ、せめて今からでも羽入氏が今回の論争に何らかの応答をされることが強く望まれるのである。

 

 

 それにしても、『犯罪』の語り口が学問的な専門性の否定を含意してしまうというのは、読解としてあまりに極端ではないだろうか? 確かに。だが、ここで『犯罪』についてこうした読解の可能性を提示したのには理由がある。冒頭で「良くも悪くも」政治的と述べた、その「良い」側面がこの点に関わってくる。

 

 上で整理した、『犯罪』の語り口が描き出す図式にもう一度戻ってみよう。

 この図式の大枠は単純な二項対立である。一方には内実の空虚さを「詐欺」で押し隠す「専門家」とその頭目たるウェーバー、他方には直感的に真実を見出す「女房」=「素人」とその代弁者たる羽入氏。この「対決」において、少なくとも「素人」羽入氏の側から見る限り和解や意思疎通の可能性は存在しない。そもそも「素人」から見た「専門家」の「理解不可能性、分からなさ」(p.5)こそが「専門家」の空虚さの徴候だったのであり、その空虚な相手との意思疎通などあり得ないだろう(「馬鹿と付き合うのはもうたくさん」という「女房」のセリフが想起される)。だから羽入氏は「この複雑怪奇な罠を単純に一気に叩き壊」すしかない(p.197)。

 この図式に留まる限り「素人」がこの「対決」を通じて「専門家」から何かを学び、自らを変化させることはあり得ない。そうした要素がそもそもこの図式には欠落しているからである。したがって、「専門家」を倒したあとも「素人」は「素人」のままである。

 先ほど指摘した「専門性の否定」という問題、「武器を打ち捨てる」と述べたのはこのことを指している。

 

 比喩を用いずに少し問題を敷衍すれば以下のようになるだろうか。

 

 確かに既成学問が空洞化するという現象はしばしば見られる。古いところではアダム・スミスがオックスフォードの旧態依然たるスコラ学に呆れ果てた、という例も挙げられよう。また既成学問の空虚ぶりを「素人」が見抜くというのも確かにあり得ることであろう。まして「素朴な疑問」が学問にとってどれほど重要であるかは論を待たない。他ならぬウェーバー自身、「素人」の着想の見事さや「素朴な疑問」の重要性(「アナーキスト」のエピソードを想起されたい)について『学問』や『価値自由』論文で触れている。だが、その空洞化した学問を批判した結果として、何がもたらされるべきであろうか。生まれてくるのは専門性の否定ではなく「新たな専門性」を備えた新たな学問でなければならないのではないか。だとするならば、「素人」の着想も一度は一定の学問的な専門性・厳密性によって入念に練磨される必要がある。逆にそうした練磨を経ない「着想」は結果的には無力なままに終わるであろう。仮にウェーバーの『倫理』を批判したとしても、その批判の際に用いた学問的専門性の規準(したがって、例えば『学問』が提示した「知的誠実性」や論理性といった規準)によってこそ「素人の着想」は新たな専門性を備えた学問へと練磨され得る。

 要するに、もし新たな学問が必要とされるのであれば、それは「素人」が「専門家」を「一気に叩き壊す」ことによってではなく、両者が真剣な対決を通じて相互に学び合い、自らを変化させていくことを通じてしか成し遂げられないはずなのである。ここで重要なのは、このプロセスが相互的だということである。すなわち、「素人」が一方的に「専門家」から学ぶのではなく、「専門家」もまた「素人」との対決を通じて多くのことを学び、自らの硬直性や空洞化を打破する必要がある。もしこうしたプロセスを欠くならば、「専門家」が「素人」によって「叩き壊」されたとしても文句は言えまい。

 だが、こうした相互的なプロセスに向かう可能性が最初から排除されてしまい、学問的な専門性が批判され新たな展望も示されないとしたら、それは結局のところ学問とその専門性の放棄に帰着するだろう。

 

 そして個人的な印象で言えば、おそらく現在、日本の社会全般において何かしら「専門性に対する嫌悪」の底流的な感情が広がっているのではないだろうか。政治におけるポピュリズムの拡大と並行して、あるいは学問においてもポピュリズムが浸透しているのではないだろうか。専門性や厳密性による練磨を経ることなく、「素人」のままであることを良しとするポピュリズムが。

 もしそうした「専門性の放棄」、あるいは「専門性に対する嫌悪」といった心情が『犯罪』による反響の背景にあるのだとしたら、問題はかなり深刻である。ことは現代の状況における学問的専門性そのものの位置に関わるからである。

 もちろん今回の論争がこの問題を「決する」などと大上段に構えるつもりは毛頭ない。それでも今回の論争はこうした状況の顕在化した一端ではあり得るのではないか。冒頭で「『犯罪』と今回の論争が『政治的』だ」と述べたのはこの意味においてである。

 

 いま私は「個人的な印象」と述べた。だが、現在日本で進行している階層間格差の拡大(ないし潜在化していた格差の顕在化)はこの「印象」をある程度裏づけるように思われる。とりわけ高等教育が、したがって間接的に学問が、こうした格差を少なくとも追認=正当化するものとして機能している(例えばブルデューの「文化資本」概念――この概念をめぐっては様々な批判があるが――を想起されたい)と考えられるのであれば、そこから学問とその専門性に対する嫌悪が生み出されたとしても無理はない。

 もしこうした状況理解が妥当なものだとするなら、学問における専門性嫌悪とポピュリズムの発生に対して、学問それ自身も(したがって「専門家」自身も)何かしら関与していることになるだろう。学問的な専門性の強化が結果的には格差の拡大に結びついていると考えられるからである。実際、他ならぬウェーバーが『法社会学』の末尾で描き出したのも「学問的専門性」が生み出す格差の問題ではなかっただろうか。

 だとすると、『犯罪』の背景に想定される専門性嫌悪の心情は、学問的専門性そのものの「意図せざる結果」とも言えるだろう。そう思うと、羽入氏が(もちろん文脈はまったく違うが)『犯罪』のあとがきで自著を「日本ヴェーバー研究の鬼子」(p.287)と評しているのは何とも皮肉な話ではある。

 

 さて、もし『犯罪』と『犯罪』をめぐる状況とをこのように理解できるとするならば、学問におけるこうしたポピュリズムにどう対処するべきなのだろうか。ウェーバーであればこうしたポピュリズムを学問のザッハリッヒカイトに耐え得ない「弱さ」として叱咤できたかもしれない。しかし上で見たような理解からすれば、ウェーバーの時代ならぬ現代において「弱さ」に対する叱咤が問題の解決につながるとは考えにくい。だが、言うまでもなく学問的専門性の放棄という選択肢はあり得ない(少なくとも私はそう信ずる)。ではどうすべきか。

 

 ここで注意したいのは、『犯罪』が描き出すようなポピュリズム的図式に従った対応は決して問題の解決にはつながらないということである。というのも、すでに見たとおりポピュリズムの二項対立図式は結局のところ「素人」が「素人」のままに留まることを正当化し、結果的には既存学問に対する批判を単なる「憂さ晴らし」に矮小化させてしまうからである。さらに階層間格差の問題に照らして見るならば、ポピュリズムは一見階層分化を批判しているように見えて実際には「ガス抜き」を図りつつ現状を固定化する方向で機能するだろう。保守派文化人が『犯罪』を「絶賛」するのは理由のないことではない。

 もちろん学問の威を借りる権威主義は論外だが、しかし二項対立を(ひいては階層分化の進展を)前提し固定化するという点で、実はポピュリズムは権威主義の裏返しであり、いわば「同位対立」なのである。

 すでに見たように、真に必要なのは「専門家」と「素人」がともに真剣な対峙・対決を通じて相互に学びあうことであろう。いや、そもそも「専門家」/「素人」という固定化した二項対立自体が権威主義/ポピュリズムの作り出す虚構ではなかろうか。確かに階層間格差は存在するだろうし、それに対して学問は間接的であれ何かしら共犯であるだろう。だが、初めから「専門家」だった人間などいないのだし、逆にいつまでも「素人」に留まり続ける必然性も存在しない。確かに現代の状況は過酷だが、しかし我々はその厳しさに抗しつつ、常に学ぶこと、学び続けることができるし、そのことによって自らを変えていくことができるはずである。他者の議論を「一気に叩き壊す」のではなく、こうした一見遅々とした営みこそが学問の可能性を担っているのではないだろうか。

 そして今回の論争もまた、こうした可能性に賭けてこそ展開されてきたと言える。しかも現に「専門家」であるウェーバー研究者たちが「専門家」ならざる人々の寄稿から実に多くのことを学んできたのではないか。だとすれば、今回の論争を通じて互いに学びあうことが可能であったという事実そのものが、ポピュリズムの二項対立図式に対する最高の批判なのである。

 

 本稿は、この「最高の批判」に対して側面からのささやかな寄与を試みたにすぎない。

 

 

 

追記 1: この機会に触れておくならば、同じく折原氏の関わっている論争としては、いわゆる『経済と社会』の編集問題をめぐるシュルフター氏(ハイデルベルク大学)との論争の方が当然ながらはるかに生産的である。また一見地味な文献学上の論争のように見えるが、私見ではこの論争の射程はかなり広いように思われる。やはり当事者の姿勢が論争を左右するのであろう。

 機会があれば、私個人としてはむしろこの折原・シュルフター論争について詳しく検討を加えたいと考えている。

 

追記 2: 文中で触れた階層間格差の拡大という問題について、実際には階級・階層研究の領域で実に多種多様な(それこそ専門的な!)議論が展開されており、ここでその研究動向について論ずるのはもちろん不可能である。とはいえ全体の動向として、高度成長期からバブル期にかけて解消した(かに見えた)格差が近年改めて顕在化していること、またその格差に対して教育が少なくとも縮小させる力にはなっていないこと、などが広く論じられているように思われる。

 

追記 3: 本稿を作成する上で、橋本努氏および折原氏から貴重なご指摘をいただいた。この場でお礼を申し上げたい。

 ただし念のために付言しておけば、本稿の主張がはじめから折原氏や橋本努氏の主張に与するべく(それこそ「政治的」=「党派的」に)構想されたわけではない。むしろ本稿の主張は両氏の主張と部分的には対立するのではないか、と私個人は予想している。そしてもしその点について論争が起こるとするなら、やはりその論争を通じて学問の可能性に寄与し得ることを期待したい。